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寄稿

─虚像を斬る─ 山口判事没後55年に思う

函館弁護士会  山形 道文

1. はじめに

山口良忠判事(33)か、(34)か

 今年は、山口判事(1913〜1947)が、故郷佐賀で死んでから55年目。私は、その祥月命日である10月11日をはさんで、2週間ほど佐賀県内で講演をやり、それと並行して、20数年前に「われ判事の職にあり」を書くために6年間かけて取材した資料のうちから66点を選んで映像構成しパネルにした「ドキュメント展」を伊万里市民図書館で開いた。

 昭和史もそろそろ歴史の大河の中に消え去ろうとしている。「山口判事の死」について、最近の刊行物やインターネットのページを開けて検索してみる。驚く。まったく、ひどいもんだ。やれ、敗戦の混乱期に生まれた神話だの、聖人願望の産物だの、官僚幻想だの、いや、法律至上主義の非常識な裁判官だの、「佐賀葉隠れ武士」の自殺志向型だの、とさまざまな議論が出てくる。

 どれもこれも、実に堂々として説得力に富んでいるので十二分に傾聴させられ、首肯させられる。いずれも、死の美化に対するアンチテーゼーとして有用であろうが、ただ、それらに共通する論法は、どれもこれも資料に基づかない史談に終始していることで、文芸ものなら虚実皮膜(ひにく)の間に真実ありで、面白かろう。しかし、「山口判事の死」については別であろう。いささか軽率で、作為的で、いや、厳しい表現でなら、死者に対して非礼にならないだろうか。

 佐賀県伊万里市の市民図書館でのこと。

 『山口判事没後55年記念ドキュメント展』の会場に、若い女性の図書館員が、分厚い人名辞典を抱えて入ってきた。半ばこわごわと、私の顔を見ながら「あのー、山口判事さんの死亡年齢が(33)か(34)かと、マスコミの方から確認の問い合わせが来ておりますが……」と辞典のページを示した。

 図書館の方でも人名・人物辞典をあれこれ調べてから、私のところへ来たようだっだ。これこの通り、どの辞典にも山口良忠。大正2年(1913)1月11日生まれ。昭和22年(1947)10月11日死。と記されていますから、死亡時は満年齢で34歳9月となりますが……、つまり、私がマスコミ取材を通じて、山口判事は33歳で死んだと話してきたのが誤解では……とそう思って来たのだろう。やっぱりネ、と私は感じた。どの人名辞典も間違っている。一体、どんな資料に基づいて「大正2年(1913)1月11日生まれ。」と記録しているのか判らないが、正しくない。

 26年前、私は『われ判事の職にあり』を書くために、山口判事の戸籍を全部調べた。「大正2年(1913)11月16日生まれ」である。もちろん、戸籍謄本も持っている。だから、死亡満年齢は33歳11月になり、山口判事(33歳)と話してきた。10数年前、ある辞典出版元に山口判事の生年月日が間違って記載されていると電話で指摘した。ところがである。どこの社の辞典を調べても当社と同じですが、と弁解したうえ、生まれ年ならともかく月日の方ならネ、(まあ、どうでもよいでしょうに、法律家は重箱の隅をほじくる、小うるさい人種)と言いたげな口調であった。別に、人の生まれた年月日が法律上の重大な効果となるなどと話したわけでもなかっただけに、苦々しい思いで、謄本のコピーを送ってやろうという気持ちも挫かれた。最近発行された大辞典でも、「大正2年(1913)1月11日生まれ」と誤まったまま出ている。『人物人名専門辞典』にしてかくの如し。

2. 虚像を斬る

 一事が万事でもなかろうが、昭和の歴史に記録されている「山口判事の死」に関して証拠に基づかないさまざまな虚構や勝手な評論・批評が横行している。その時世に都合がよいように仕立てられ、使い分けられ、それがそのまま引用され、さらに巧みに尾ひれさえつけられて伝えられている。

 『われ判事の職にあり』出版以来20年が経ち、とっくに絶版になり、神田の古本屋街からも姿を消した。そして、著者は古希をはるかに超えて老い、昨秋、宿痾のC型肝炎から発症した肝臓ガンの手術を受け、再発を抑える点滴注射を1日おきに受けている。この辺で何とかしておかないことには、山口判事の人間像は、道化師か鬼神か奇人変人に虚構されてしまうではないか。何が歴史的真実か。

 ともあれ、私は、本を書くにあたり、「事実の認定はすべて証拠による」をモットーに、山口判事の人生の軌跡を一々追跡し、6年間かけた。

 関係ある資料を探し回り、多くの写真・図面・手紙・日記・随筆・判決などの「物証」を収集した。多くの「人証」を得た。判事夫人をはじめ兄弟姉妹や親戚縁者や小学・中学・高校・大学時代の学友や恩師、裁判官時代の同僚裁判官や立会書記官や立会検察官や関係した弁護士や警察官や知人隣人と直接面談し、多くの生き証人から多くの証言とそれらを裏付ける録音テープ・写真・手紙など参考資料を入手することができた。苦労した。しかし喜びのほうがはるかに大きかった。取材を通じて、何度も感動させられ、励まされ、勉強させられた。

 多くの方々が、山口判事について語られたとき、最初は身構える様子であったが、終わる頃には『忘れられないなつかしい人です』と深い親愛の感情を見せたことに驚かされた。記憶の最も大切な奥を覗くように、静かに、誠実に語られたのである。ときおり、ためらいのような沈黙の間を感じたが、それは『ヤミ米を食わずに生き延びることができなかった山口判事について、ヤミ米を食いながら生き延びてきた自分に語る資格があるのだろうか』と自問されているかのように思われて、その潔さが堪らなかった。

 山口判事の死の影には、戦争と帝国主義日本が大写しに写る。つづいて、戦後日本の混乱と飢餓社会とが大写しに映る。人々はみんな細い一本の蜘蛛の糸にすがりながら、生きてきた。その地獄から這い出ようと、もがき、苦しみ、悩み、どん底の体験を共有している。山口判事を語るとき、少なくとも書き手の私は、それを忘れてはなるまいと戒心した。好きな歌がある。

山の木に粉米(こごめ)の如く花咲けり
飢えて死にたるもの帰り来よ

岡野弘彦

3. 記念祭の写真

 取材した資料は、物置の中に、訴訟関係の記録と共に眠ったまま。この辺で何とかしなければ、やがてゴミとして焼却されてしまうだろうと考えたのである。

写真1

 さて、市民図書館でも、一般市民に講演したが、急に、演題『知っていますか? 実証山口判事の生と死』をもっとインパクトがある題名に変えなければと思った。当日、ホール前壁に『虚像を斬る』と大書された紙が張られた。人名辞典の誤記の話から始めた。

 
写真2

 『ドキュメント展』には、旧制佐賀高校時代の記念祭(学園祭)の写真2枚が並んだ。この写真は、私が山口判事を本に仕上げる原点になった貴重なものだ。経緯はこうだ。

 山口判事と3年間同じクラスで学んだA氏は、山口判事の死を聞いた時、やっぱりネ、とその死を予想していたと書いている。同氏は高校教諭、高校長から県の教育長と教育界のトップを勤めたが、刊行物の中で、次のように書いた。以下原文のまま。

 「Y判事(山口判事) 闇生活を潔しとせず栄養失調死」のニュースは、終戦当時の人々にかなりのセンセーションを巻き起こした。ある人々は、人間Yの頑固さを笑い、超世俗性を憐れんだ。殊に常識ある人々の彼への批判は、かなり冷たく、かなり厳しかった。法を守るべき判事としての彼の立場は一応認めながら、そこに、人間性の欠如と思考の単純性を指摘し、判事として欠格者とまで論じた人もある。

 私は、今ここでその論評の適否を論ずるつもりはない。旧制S高で三年間級友として彼に接してきた私は、彼がこんな結末をつげたことを少しも意外とは思わない。いや、むしろ極めて漠然ではあるが、何か将来に起こることを予想さえしていた。

 彼の性格は、それほど愚直であり、頑冥であった。極めて単純であり、一途であった。さらに困ったことには、彼自身は、その自己を分析することもなく、自己の頑なことに気づかず、人生の探求と人間性の啓発に努力する級友を嘲笑と軽侮の眼で冷たく眺めていた。彼の孤高主義的な生活態度は、実に徹底していた。

 級友が、盃をあげて人生を語り芸術を論ずるクラス会にも、若人の燃えたぎるエネルギーを身体ごとぶっつけるストームにも、青春の意気と感激に涙するあの記念祭にも、彼、Y(山口判事)の姿は、三年間ついに一度も見ることができなかった。(略)

 その彼が、栄養失調死とは。法を守るべき彼が、 その法に縛られて命を奪われたのである。(略)

 彼は、自のたどるべき運命を、自らの手で創り、自らの命の火を自らの手で消して終わったように思われてならない。」

 はじめて、この文を読んだとき、私は、罵倒とさえ思われる厳しい語調に辟易した。そして、これは、多分、字句どおり読まない方が良いのではないか。前途ある級友山口判事の夭折を痛惜するあまり、激情に駆られたのだろう。悲しみが高じるとき、人は怒るものだ。その行間を読み取ろうと試みた。しかし、山口判事は、本当に学生時代、徹底的に孤高主義的態度をとり、A氏の文章のように、「人生の探求と人間性の啓発に努力する級友」を嘲り笑い、軽蔑し冷たい目で見下していたのか。だからこそ、あのような死をしたというのか。私は、大いに戸惑った。

 別な同級生の和仁孝三氏を訪問した。同氏は、昭和初期の大審院院長和仁貞吉判事のご子息である。

 「いや、そんなことは断じてありませんよ」と真っ向から違う返事を聞いた。「私は山口君とは仲良しでした。それに第一、記念祭には山口君は参加していましたよ。彼は、確か赤ちゃんのよだれ掛けをした姿で踊りまくっていましたね。私も首から数珠を掛けて坊主姿で一緒に踊りましたからね」と具体的な証言であった。しかし、同氏のその証言を補強する証拠の出てくる見込みはなかった。戦前、戦中、戦後の激動期を跨いで、虚実はもう藪の中と諦めた。あるとき、「記念祭の写真を入手した」と、和仁氏から知らせが入った。ある同級生の未亡人が夫君の遺品を整理していてたまたま出てきた、高校1年のと2年のと2枚ある、3年のときは雨のため記念祭はなかったという事実まで判明した。

写真3 後列右から2番目が山口判事
(佐賀高校1年の記念祭)

 1年のときの記念祭の写真を良く見るがいい。後列右から2番目に「人生の探求と人間性の啓発に努力する級友を嘲笑と軽侮の眼で冷たく眺めていた」と批判されている山口判事が写っているではないか。「青春の意気と感激に涙するあの記念祭」のその輪の中で、左右の友と肩を組んで、天真爛漫な顔で笑っているではないか。

 
写真4 前列左から2番目が山口判事
(佐賀高校2年の記念祭)

 2年のときの写真からは、和仁氏は探し出せなかった。しかし、ここにも山口判事はいた。前列左から2番目のキツネ面の男だ。面をかぶっていて顔が判らないのも無理はないが、「この親指がねじれ曲がっているのが夫の山口でございます。」と矩子夫人が身内だけが知る細かな事情まで明かしたはがきを寄せてくれた。また山口判事の実弟山口良和氏と二人の実妹も「確かに兄です。この指がそうです。」と教えてくれた。大地にどっかと足を投げ出し、青春の群像の中に入っているではないか。

 

 東京武蔵小金井に住んでいた同級生の永来重明氏を訪ねたときのこと。森繁久弥や越路吹雪や黒柳徹子の師としてラジオドラマ作家として一世を風靡した同氏は、ひとり老後生活をされていた。

 記念祭のこの古い2枚の証拠写真に歓声を上げた。「いた、いた、山口がいたぞ。」しかし、「だがね、山口は授業が終わると、汽車通学だったが、さっさと帰った。友人の誰とも、カフェにも行かず、酒も飲まず、駄弁ることもせず、全く付き合いの悪い男だった。ガリ勉と云う者もいた。成績は良かったが。」と云った。

 何故にさっさと帰ったのか。私は、その理由をすでに掴んでいた。別な写真も持っていた。当時、老父山口良吾氏が農村青年のために自費で開いた「弥栄義塾」という夜学塾で、山口判事は、高校の3年間、助手をしていた。無報酬である。塾生は100人もいた。「若先生」と慕われていた。その義塾の建物の写真を示して説明したとき、同氏は、日暮れ時の庭の方に目をやっていたが、「ああ、知らなかった。ぼくらは何も知らなかったなあ。」と涙をぼろぼろこぼしながら泣いた。若くして逝った級友に詫びる光景に私はどんなに感動したことか。

4. 逝くものは斯くの如きか

 「ドキュメント展」会場の「マドモアゼル・ノリコ」、「疎開中のハガキ」、「母子対面」、「最後の判決書」のパネルの前では、多くの人々が、長い時間、立ち止まっていた。

 羨ましいワ、ホントニ? あの餓死した判事さんが婚約時代に奥様に捧げた「スケッチ画」ですか。若い女性のグループが優しい表情をしながら見ていた。

 話かける人もいた。山口判事は、悪法だが法に殉じようと敢然と餓死を進んだ裁判官だとか、少なくとも慢性的自殺を遂げた信念の人とばかり考えていましたが、裁判所が休みの日には浦和の荒川堤に出かけて荒地を耕して、カボチャやイモを栽培して生きようと頑張っていたことを「疎開中のハガキ」で知り、それを裏付ける同僚の矢崎憲正裁判官の手紙を見て、何だかほっとした気持ちになりましたと。

 「母子対面」した場所の写真をあかず見ていた学生が尋ねた。「ここの場所は今でもありますか? そうですか。もう、残っていませんか。柿の木はまだありますか?」

 多くの人が、「最後の判決書」の震えている書体に食い入るように見入っていた。嘆声が聞こえて来る気がした。食管法違反被告事件では、当時の他の裁判官よりもかえって軽い刑を宣告していた。誤まった先入観に基づく厳罰裁判官の汚名はもう晴れてほしいものだ。没後55年が経った。そして、取材後20数年が経った。

写真5 最後の判決書

 山口判事矩子(ノリコ)夫人も亡くなられて20年になる。昔の高校時代の仲良しだった和仁氏も永来氏もA氏も鬼籍に入られて久しい。当時の判決書を調査する道を開いてくれた谷口正孝判事もいない。取材でお世話いただいた方々の多くもいない。あの矍鑠として古武士のような実弟の良和氏も両側から支えられずには歩行できなかった。逝くものはすべて斯くのごときか、昼夜をおかずの感懐が胸に溢れてくる。この辺でもう止めにしよう。

 

 伝えたい取材裏話はまだ山ほどもある。山口判事の死について語るべき問題点、とくに、法律論議は山ほどもあるが、これで止めよう。

 最後に、こだわりを一つ。

 この文中に『山口判事』と書いてきたが、表現上の都合によるもので、私の心裡では『山口判事さん』と『さん』づけである。なぜなら、山口判事さんの33歳のご生涯の2倍をはるかに越えて生きている私には、法曹としても、人間としても、その足元に遠く及ばないことを自覚し、深く尊敬しているからである。今でも山口判事さんの生と死をめぐる問題について調査し研究し学んで、私自身、人生が充実しつつあることを実感している。親近感と感謝の念とを示したいからである。

 55年祭にあたり、私はご霊前に漢詩1首を捧げた。今回も、山口判事さんの佐賀は、黄金の稲穂の中に輝いていた。

山口判事五十五年祭  守節 山形道文

 稔歳黄雲雲接山  豊年の稲穂の波が 山までつづき

 祠前鼓腹太平顔  鎮守の社の前には 満腹の平和な顔がある

 振衣独往首陽道  衣を振ってひとり行く 首陽山の道

 閭巷喧喧愚又頑  村人は口々に 馬鹿正直だの頑固者だのというが

 首陽=伯夷と叔斉がワラビを食い餓死した故事の山

 私の雅号「守節(しゅせつ)」の由来は、山口判事さんである。中国五経の一つ「礼記」に「節を達するものを聖とし、節を失うものを下とし、節を守るものを次とする。」とある。達節の人山口判事を書かせてもらった後輩法曹として、せめて、守節の人として人生を終わりたいのである。

おわり

なお、法曹関係誌に掲載された山口判事に関する拙文をご参考までに。

「自由と正義」平成9年7月号「ひと筆」

  • 「山口判事没後50年 われ判事の職にあり」

「自由と正義」平成12年6月号「ひと筆」

  • 「逝く者は斯くの如きか」
  • 「窓」平成12年5月57号
  • 「足を濯う 屈原と山口良忠判事のこと」

「法曹」平成6年11月号

  • 「谷口正孝判事を悼む」
  • 「法曹」昭和61年10月号
  • 「永来重明さんと山口判事のこと」

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